ミャオ族と鳥居龍蔵との関係とはどのようなものなんでしょう?
苗族調査報告には何が書かれていたのか、また記念博物館にはどんな資料が置かれているのでしょうね。
鳥居龍蔵を語るうえで、ミャオ族との関係を切り離すのは非常に難しいです。
彼は苗族調査報告をはじめ、東アジアを端から端まで駆けめぐった記録がたくさん残されています。
鳥居龍蔵の功績は徳島県立鳥居記念博物館などで確認することができます。
この記事では、ミャオ族と鳥居龍蔵との関係とはについてや苗族調査報告と記念博物館について詳しく紹介します。
ミャオ族と鳥居龍蔵との関係とは?
ミャオ族(苗族)と鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)との関係は、彼が中国を中心とした東アジア地方を研究している時代から始まっています。
鳥居龍蔵がミャオ族に興味を持った理由は、中国西南のミャオ族と人類学上の関係の東京帝国大学から調査要請を受けたのが始まりです。
彼は、自分が興味のあるものにはどこまでも力を注ぐタイプの人間です。
独学で知識を身につけて、考古学者や民族学者として活躍しました。
この要請によって彼は、ミャオ族のことを深く調べていくことになります。
中国は多数の部族があり、今の時代でも一部の部族は存続し続けています。
生活スタイルを大きく変えることなく、大昔の生活スタイルを貫いている部族も少なくないです。
ミャオ族(苗族)は、中国の国内に多く居住する民族の一つで、現代社会に上手く適応していて、問題なく生き抜いています。
食文化は一般的な中国人と大きく異なることは無く、基本的には似たような食事をしています。
米を主食として、肉や魚をおかずにするので、現代人と同じような食文化と言えますね。蕎麦(そば)や納豆なども食べるので、日本人とも通じる部分があります。
調理方法は主に火を使ったものが多く、オーブンや電子レンジといった家電を使うことはほとんどないです。
お酒で人を迎える文化があり、外部との交流を完全に遮断しようする部族とは違い、社交的な一面も持ち合わせています。
鳥居龍蔵は、西南中国と台湾と日本の共通性にいち早く気が付き、この共通性について調査を開始します。
日本は中国の影響を受けていて、それは両者の文化を見れば明らかです。特に食生活や漢字といったものに色濃くあらわれています。
今は海外調査は当たり前になっていますが、鳥居龍蔵が海外調査をしていた当時はそれがとても難しいことだったようです。
外国人を受け入れない部族もたくさんいたので苦労したという記録も多く残ってます。
現在はテレビや雑誌、インターネットで海外の情報を気軽に手に入れることができます。
しかし、当時は海外の情報を得るためには直接渡航して自分の目で確認する以外に方法はありませんでした。
写真を撮る方法はあったかもしれませんが、ビデオカメラはもちろん、ボイスレコーダーなども無いので書物に残す以外に方法は無いです。
少数民族は言葉も独特で、何を言っているのか理解できないことも多いです。
身振り手振りで多少は理解できるかもしれませんが、通訳が居ないので細かい言い回しや考え方などを知ることはできないです。
鳥居龍蔵は、20代からミャオ族の調査をはじめて60代後半まで活動を行いないました。
ミャオ族(苗族)の調査のために何度も東アジアに行った経験があり、当時の日本人のなかでは圧倒的な知識量を持っていたことが予想できます。
海外に行くたびに新しい調査方法に挑戦していて、台湾での調査のときは写真撮影を導入したといわれています。
写真による記録もいくつか残っていて、徳島県立鳥居記念博物館などで見ることができます。
鳥居龍蔵が海外調査をしていた時代は飛行機などはなく、基本的には船や馬、車などを使って調査をしました。
アジアを歩いた距離は計り知れないといわれていて、体も丈夫であったことが証明されています。
頻繁に海外に足を運び、なおかつ活動的に歩き回っていたのにも関わらず、大きな病気をしなかったといいます。
これも鳥居龍蔵の持って生まれた才能の一つといっても良いでしょう。
研究者の中には途中で病気や感染症に掛かり、志半ばで命を落としてしまった人もたくさんいます。
鳥居龍蔵は生涯で大きな病気によって研究を中断したという報告はないです。
ミャオ族の研究途中で情熱を失った期間も無いので、肉体と精神のどちらも充実していたことが予想できます。
鳥居龍蔵の苗族調査報告と映像記録の重要性
鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)は、民族学者という一面も持ち合わせていたので、アジアで生活している民族を研究していたという記録が数多く残っています。
海外調査では映像記録の重要性が高いですが、当時は機材が無かったので映像に残ることはできませんでした。
鳥居龍蔵の苗族(ミャオ)調査報告は残っていますが、映像記録がないので事実とは異なって伝わっているものも多い可能性はあります。
今の時代は、ほとんど人がスマホ(スマートフォン)を所有していて、常に持ち歩いている人が多いです。
そのため、気になるものがあればすぐに映像や写真におさめることができます。
鳥居龍蔵が生きていた時代は映像に記録として記録を残すのが難しく、書物による記録がほとんどです。
映像記録があればより正確な情報を得ることができますが、こればかりは仕方がないと言わざるを得ないでしょうね。
苗族調査報告と映像記録の両方が残っていれば、さらに貴重な資料になっていたと思いますが、当時の技術で考えれば十分な調査報告書だと言えます。
鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)という人物を調べていくと分かりますが、鳥居龍蔵は好奇心が旺盛で勉強熱心の性格をした人物です。
民族のライフスタイルに興味を持ち、どのようにして今のライフスタイルが構築されたのかを徹底的に調査しています。
当時は、正確に音声を記録する機械はありませんでしたが、沖縄調査では蓄音機を導入して民謡の録音に成功しています。
鳥居龍蔵には、新しいものを受け入れる柔軟性も持ち合わせていたことが分かります。
妻は、現地で助手を務めていて、夫婦で同じ目的を持っていたのも素晴らしいです。
これだけの功績を残すことができたのは、彼ひとりだけの手柄ではなく、妻、きみ子夫人の協力があったからでしょうね。
また、自由奔放な性格で縛られるのが嫌いな人物でしたが、妻のことは信頼していて、良い関係を築いていたことが分かります。
彼が生きていた時代は、激動の時代でしたが、その中でも海外調査を続けることができたのは彼の賢さが関係しているでしょう。
危険を察知する能力も高く、現地の人に嫌悪感を抱かれないような工夫もしていたと予想できます。
現地では住んでいた自宅がなくなってしまったり、お金に困った経験もあるようです。
でも、周りの人が彼をサポートしていて、長く研究活動を続けることができていたといいます。
海外での生活に対応する能力も高く、体調を崩すことが無いところを見るとサバイバル能力も長けていたのでしょう。
鳥居龍蔵記念博物館の見どころや場所と行き方
鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)の研究活動を詳しく知りたいという方は、徳島県立鳥居記念博物館に足を運ぶことをお勧めします。
徳島県立鳥居記念博物館には、鳥居龍蔵の調査報告書などが多く保管されています。
考古学者や民族学者、民俗学者の先駆者として活動した彼の功績を知りたいのであれば必ず立ち寄るべきです。
徳島県立鳥居記念博物館
場所:徳島県徳島市八万町寺山1
行き方:高速道路・電車・バス
営業時間:9時30分から17時00分
祝日:年末年始
電話番号:088-668-2544
鳥居龍蔵の記念博物館の場所は、徳島県徳島市八万町寺山1にあります。
徳島県文化の森総合公園の三館棟内にあり、県が管理している建物です。
行き方は簡単で、高速道路を使う場合はインターチェンジを降りてすぐのところにあります。
電車やバスを利用する方法もありますが、駐車場もあるので車で行くのが一番良いかもしれません。
旅行のついでに行くのであれば、空港近くでレンタカーを借りておくのがおすすめです。
徳島県立鳥居記念博物館の営業時間は、9時30分から17時00分で、定休日などは特に無いですが、祝日や年末年始は閉館しています。
電話番号は088-668-2544なので、何か疑問があれば問い合わせをしてみると良いでしょう。
記念博物館の見どころは圧倒的な書物の量と関係資料の多さです。これらを全てを彼が自分の足で見てきたのかと思うと驚きを隠せないです。
建物は非常に綺麗で、中は広々としているのでゆっくりと見てまわることができます。
アジアを研究した鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)の記念博物館なので、ところどころアジアを意識したような作りになっています。
この記念博物館の建物の設計にもこだわりを感じます。
鳥居龍蔵の功績や活動内容を分かりやすく説明してくれるセミナーなども開催されています。
気になる人は、ホームページを確認してセミナーに申し込んでみることをお勧めします。
鳥居龍蔵が海外に行く時に使用していた道具などを見ることもできますし、海外でどのような生活を送っていたのかということを深く知ることも可能です。
博物館の周りは森があり、自然豊かな環境でゆっくりと散歩することもできます。
また、徳島県はうどんが美味しいので、途中で美味しいうどんを食べるのもおすすめです。
展示されているもの一部は、インターネットで情報を集めることが出来ます。
ミュージアム全体の写真などもあるので、現地まで行けない場合など雰囲気は感じることができます。
観光名所としての知名度は低いため、徳島県に住んでいる人も行ったことがないという人が多いようです。
県外からの観光客もあまり訪れる場所ではないですが、彼の功績は非常に大きいので、たくさんの人に知ってもらうべきです。
今後は、鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)のことを広めていく活動も盛んになってくるかもしれないですね。
令和元年度鳥居龍蔵企画展はいつ
令和元年度鳥居龍蔵企画展「文化財調査の先覚者 鳥居龍蔵、徳島を探る」という催し物が行われます。
いつかというと、令和2年2月8日の土曜日から3月15日の日曜日までとなっています。
催し物の内容は、鳥居龍蔵の徳島においての調査活動に注目して、網羅的にリストアップしています。
関連する県内外の文化財の紹介もあります。
これらをとおし鳥居の調査が文化財調査の先駆者の役割をしたかが理解できます。
主催 徳島県立鳥居龍蔵記念博物館・徳島県立博物館
会期 令和2年2月8日(土)~年3月15日(日)
※休館日 毎月曜日(ただし、2月24日(月)は開館、2月25日(火)は休館)
会場 徳島県立博物館企画展示室
観覧料 一般200円、高校・大学生100円、小・中学生50円
※20名以上の団体は2割引
※土・日曜日、祝日は高校生以下無料
※学校教育での利用は無料
※身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳所持者及びその介助者1名は無料
※高齢者(65歳以上)は100円
(割引をご希望の場合は、証明できるものをご提示ください)
鳥居龍蔵とは(プロフィール)
鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)とは、1870年5月4日(明治3年4月4日)徳島東船場で生まれています。
1953年(昭和28年)1月14日に東京で亡くなっています。
人類学の第一人者である鳥居龍蔵は人類学者でもあり考古学者でもあります。
明治から昭和にわたり活躍しています。
彼は、1890年になると東京へ行き勉強をはじめますが、2年後の1892年になると一家で東京に移住しました。
なお、東京大学の助教授を経て、後に国学院大学、上智大学の教授も務めています。
このように、裕福な家庭に生まれた彼は、特に不自由することのない少年時代を過ごします。
そのため、まわりからは、「旦那衆」と呼ばれていたといいます。
学校は嫌いでしたが、勉強は好きで信頼している人物から熱心に指導を受けていたという記録が残っています。
このころ彼は、小学校も中途で退学しており、人類学を独学で学んでいます。
熱心な勉強家の彼ですが、実は学校に通うのは嫌いだったようですね。
鳥居龍蔵は、自宅に居てひとりで勉強する方が効果が高いという考えを持っていました。
この時代は教育を受けることができるだけでもありがたいことだったのですが、裕福な家庭で育った彼は学校教育に魅力を感じなかったのでしょう。
鳥居龍蔵とミャオ族(苗族)の関係は、1902年(明治35年)に中国西南地域を訪れたことから始まります。
これは、中国西南のミャオ族が人類学上密接な関係をもっていたのではという学術的依頼からきています。
その時の調査は、なんと1902年7月より1903年3月に達しています。
この9か月間に及んで、ミャオ族とイ族の調査に従事しており、西南中国と台湾と日本の共通性を探っています。
主な著書は、『苗族調査報告』の他にも『千島アイヌ』や『人種学』、『蒙古旅行』などまだまだ多数あります。
鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう、1870年5月4日(明治3年4月4日) – 1953年(昭和28年)1月14日)
1902年(明治35年)、鳥居は台湾への調査の成果をいかし、中国西南地域へと向かう。
台湾の「蕃族(鳥居による表現。中国古典における表現のままである)」(『中国古典』多数あり)と中国西南のミャオ族が人類学上密接な関係をもっているのではないかとの学術的要請のためである。
これは鳥居にとって初の自らの学術的要請による調査であった。
引用:ウィキペディア
ミャオ族と鳥居龍蔵との関係とは|まとめ
ミャオ族と鳥居龍蔵との関係とは?苗族調査報告や記念博物館について。
鳥居龍蔵とミャオ族の関係は、彼が中国西南のミャオ族と人類学上の関係の東京帝国大学より調査要請をいただいたのが発端です。
彼のことを深く知りたいという方は、徳島県立鳥居記念博物館に直接足を運び、自分の目で苗族調査報告や書物などの記録を確認してみることをお勧めします。
鳥居龍蔵の記念博物館の見どころについてや彼の功績の一部を知ってもらえたと思います。
場所と行き方場は、徳島県徳島市八万町寺山1となり、行き方は高速道路を使えばインターチェンジを降りてすぐです。
興味のある方は、家族や友人を誘って行ってみてください。
鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)の好奇心旺盛な人柄と生涯にわたって探究心を持ち続けた彼の人生を知ることができます。
今の時代は、インターネットで何でも情報が手に入る時代です。
インターネットも何も無かった時代に海外を駆け回って研究をしていたということを知ると感動しますね。
コメント