明治天皇の誕生日が文化の日になった理由!四大節の明治節との関係?

文化の日は明治天皇の誕生日でもあります。

 

これは、以前に日本あった四大節(しだいせつ)とも関係しています。

 

自由と平和を愛し、文化を進めるという趣旨に基づき、11月3日に祝日が制定された形です。

 

なぜ11月3日が制定されたかといえば、その理由には昭和23年の7月20日に祝日法が公布されたことによります。

 

実は11月3日は戦前も祝日で、当時は明治節と呼ばれていました。

 

つまり昭和になってから作られたわけではなく、元々あった祝日の名前が変わったのが正確なところです。

 

どういう経緯でそうなったかが分かると、より理解が深まり納得できますね。

 

ここでは、文化の日や明治天皇と四大節についての関係を詳しく紹介していきます。

明治天皇の誕生日が文化の日になった理由!

11月3日文化の日は、明治天皇の誕生日としても知られる重要な日です。

 

この日に決められた理由には祝日法が関係しています。

 

最初は明治天皇の誕生日でしたが、戦後にこの名前を使うことができなくなりました。

 

そこで、文化の日という名前で祝日になりました。

 

つまり明治天皇の誕生日は祝日で、この日を文化の日に合わせてきました。

 

もっと正確にいえば、11月3日の祝日自体は昔からありました。

 

その名前が入れ替わるような形で変わったと捉えるのが妥当です。

 

このように、11月3日の祝日は戦後に名前を変える必要が出てきました。

 

そのため自由平和を愛し文化を進める名目の元で日付の方を変えなかったのが答えとなります。

 

名前は変わっても明治天皇の誕生日を祝日に残したかったということです。

 

そういう当時の人達の思いを窺い(うかがい)知ることができます。

 

明治天皇は日本の象徴ですが、国民にとっては日本を近代化させた指導者です。

 

また、国と国民の将来を思ってきた人物でもあります。

 

天皇家の影響力を弱めたいGHQは、憲法制定に合わせて11月3日の祝日を廃止しようとします。

 

しかし、日本側の反対にあって妥協した形です。

 

当初は11月1日を祝日にする案もありましたが、最終的には明治節だった11月3日に落ち着きました。

 

文化の日の名前は、明治天皇の日本の残すべき文化は残し、採り入れるべき外国の文化は採り入れるというスタンスの影響を受けています。

 

新しい時代に相応しい、まさにそういう名前が考えられたといえるでしょう。

 

明治節にあった誕生日的な要素が薄まったのは少々残念ですね。

 

でも、これはGHQの意向も考慮すればやむを得ないところです。

 

新しい憲法は天皇家と無関係、といったメッセージを発信する必要もありました。

 

祝日が廃止されたり日付が変わることなくこの形に収まったのは、ある意味で絶妙です。

 

祝日の名前が変わっても、天皇を愛する国民達の胸の中には、明治という時代がちゃんと残ったと思われます。

 

時代が変わり時が進むに連れて、元の由来や変遷(へんせん)は忘れられてきました。

 

ですが一部には11月3日を明治の日にしようという動きもあります。

 

ただ、再び名前を変えなくても文化の日が誕生した理由を知ることで十分に歴史に思いを馳せることができるでしょう。

 

そもそも文化の日は定着していますし成り立ちを考えれば変える必要はないとも考えられます。

 

天皇の誕生日が変化するようなことはありません。

 

祝日の日付自体は明治時代から11月3日のままなので改称することに意味があるのかは少々疑問です。

 

昭和から平成、そして令和になっても11月3日は祝日のままで、名前はどうあれ特別な日に違いないです。

 

一応、表向きは明治節と無関係ということになっています。

 

ですが、当時の働きによって祝日の変更が免れられたのは事実です。

 

憲法と天皇が直接的には関係ないとしても成り立ちには連続性があります。

 

しっかりと覚えて理解を深めたり、次世代に伝えていきたいものですね。

文化の日と明治節との関係や日程はいつ

文化の日に当たる四大節の明治節は、1927年~1947年の20年間において、明治天皇の誕生日の11月3日に制定されていた祝日です。

 

以前は新年節と紀元節、天長節の三大節でしたが、これに明治節が加わり四大節になっています。

 

三大節の成り立ちは、大正時代に東京市民の声により、

 

ゆかりある代々木に明治神宮が造られるなど明治天皇の遺徳を偲ぶ(しのぶ)動きがありました。

 

1925年には記念日の祝日制定の動きが起こり署名が全国から集められたほどです。

 

このような働き掛けに応じた当時の政府は、記念日として1927年の3月3日に明治節を制定したわけです。

 

更に、その日付を明治天皇の誕生日、11月3日に決められて祝日となった経緯があります。

 

当時は国旗の掲揚例祭などによって盛り上がりを見せていました。

 

実のところ、11月3日の祝日自体は明治時代に公布された天長節が最初です。

 

後に天長節は大正天皇の誕生日に当たる8月31日に移動しています。

 

昭和時代に入ると今度は4月29日に変わり、12月25日が大正天皇祭となりました。

 

改めて確認すると文化の日の11月3日は元々明治節だった日で、ここに明治天皇と関係があることが分かります。

 

11月3日は長らく明治天皇の誕生日、つまり明治節の名前で祝日でした。

 

それが文化の日となったのは、1946年に日本国憲法が公布されたのが切っ掛けです。

 

明治節だった日が文化の日とされたのは、明治天皇とは決して無関係ではないです。

 

そこは、やはり何らかの形で残そうと働き掛けた当時の人達の力によるものでしょう。

 

ただ、関係者は文化の日、そして四大節やその1つとは関係がないとしています。

 

祝日法の制定に関わった当時の回顧録において、文化の日の成り立ちに関する記述に四大節は出てこないです。

 

記録に残っているのは、憲法発布が11月1日の予定でした。

 

それがメーデーと重なることを理由に3日にずらされたことです。

 

当初、参議院側は11月3日の憲法記念日制定を主張していました。

 

しかしGHQ側の反発により、衆議院側の同意で憲法記念日が5月3日になりました。

 

こうして11月3日の主張は孤立しました。

 

なお、憲法記念日以外で名前をつけるとしたらというGHQ側の突然の提案により、四大節でもない現在の名前が誕生しました。

 

四大節との関係はないことになっています。

 

それでも薄まったとしても少なからず残っているといえます。

 

それは11月3日が引き続き祝日のままで、名前が変わっても明治時代に思いを馳せることができるのが根拠です。

 

直接的な関係はないとしても間接的には関わりが残っています。

 

GHQであっても完全に刷新させることは難しかったと想像できます。

 

平和文化という2つのキーワードを新たに採り入れ、祝日名にもなっている特別な日です。

 

過去の歴史を振り返りつつ、今後も守り続けることが大切でしょう。

明治節以外の四大節(しだいせつ)の意味や種類と日程はいつ

明治節の意味といつかといえば、端的には明治天皇の誕生日で、現在の文化の日の11月3日です。

 

四大節(しだいせつ)とは新年節や紀元節、天長節に明治節が加わった祝日のことで以前からあった三大節を拡張したものです。

 

1月1日の元日を四方節、1月5日の新年宴会、10月31日の天長節祝日を加えた4つの祝日が四大節というわけです。

 

紀元節だった2月11日は、1967年以降に建国記念日と改められました。

 

4月29日の天長節は、大正天皇の崩御により昭和天皇誕生日に変わり、みどりの日昭和の日と変遷しています。

 

以前は8月31日が天長節で、大正天皇が崩御される前は明治天皇誕生日でした。

 

天長節は1911年まで11月3日でしたが、1927年以降は明治節が移動してきました。

 

明治節だった11月3日は後に文化の日として、今も続く祝日となっています。

 

当然ですが、四大節は天皇家と関わりのある祝日なので各地で様々な儀式が行われたりします。

 

1月1日元日は四方拝とされ、宮中では天皇が儀式を執り行うのが習わしです。

 

四大節はこのように、誕生の切っ掛けやその後の扱いは時代により変化していきました。

 

このため、廃止されたり名称が変わったものなどそれぞれです。

 

いずれにしても、休日の制定に関わっているのは間違いないことです。

 

仮にもし四大節が存在してなければ、今の祝日はなかったり日付が違っていた可能性もあります。

 

宮中祭祀には四大節に基づくものも存在します。

 

しかし、時代に合わせて目的が変化したり名前が変わってきたものも少なくないです。

 

かつての四大節が廃止になっても、それは決して誕生の歴史や意味を失ったわけではなく刻まれた歴史は残り続けますね。

四方拝(しほうはい)の意味と日程はいつ

四方拝(しほうはい)はいつかというと年初の1月1日元日の早朝が正確なタイミングで天地四方の神祇を拝するものです。

 

歳旦祭に先立つ形で、宮中神嘉殿(きゅうちゅうさんでん)において天皇が毎年行っています。

 

以前は四方節と呼ばれていましたが、名前が変わった今でも儀式の内容は旧例に準拠しているのが特徴です。

 

この儀式は、1月1日の午前5時30分に行われます。

 

黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)という束帯を着用した天皇が皇居宮中三殿の西、神嘉殿(しんかでん)南から仮屋の中に入って執り行う流れです。

 

2009年以降は、天皇陛下の高齢化に伴い簡略化され場所を皇居の御所で執り行われることになりました。

紀元節(きげんせつ)の意味と日程はいつ

紀元節の意味は、その疑問の答えは8世紀の初め頃にまで遡り、神武天皇が即位した日を特別な日に定めたものです。

 

日付はいつかというと毎年2月11日で、宮中皇霊殿で天皇による儀式が行われてきました。

 

ただし、紀元節が廃止された結果、いわゆる宮中祭祀と呼ばれるものは行われなくなりました。

 

昭和天皇に限っては、臨時御拝の名目で宮中三殿に出向き、紀元節祭と同じ内容の祭祀を行ったそうです。

 

後の明仁天皇もこれに倣い継承してきましたが、令和時代になって今上天皇も受け継ぐかは未知数です。

天長節(てんちょうせつ)の意味と日程はいつ

天長節の意味は、これは今上天皇誕生日を表す祝日です。

 

日付がいつかというと国家の日のナショナルデーともされる2月23日です。

 

宮中祭祀は天長祭という名前で、皇居内の儀式に加え、伊勢神宮を始めとした神道神社でも執り行われます。

 

祝賀の儀や宴会の儀、そして茶会の儀と一般参賀がありますから、天皇や関係者にとって忙しい1日になります。

 

大正時代に作られ、その後に名前は変わったものの、作った人達の思いや歴史は今も受け継がれています。

 

当時の国民に愛された明治天皇は、崩御してからも強い影響力を残し、人々を動かしたといえます。

 

遺徳を偲びたい東京市民が行動を起こし、原動力が政治家を動かすことで、ようやく誕生したのがこの明治節です。

 

現在の文化の日では、特に宮中祭祀は執り行われていません。

 

しかし明治節と変わらず国民の休日ですし各地では文化にちなむイベントが催されます。

 

文化というものに目を向け、伝統を守ったり新しいものを採り入れる考えを持っていた明治天皇にまつわる日なので間接的に関係していると思われます。

結び

明治天皇の誕生日が文化の日になった理由についての記事はお役に立てたでしょうか?

 

また、四大節にある明治節との関係についてもご理解いただけましたら光栄です。

 

ここではこれまでの記事の内容の要約を載せていきますね。

 

明治天皇の誕生日が文化の日になったのは、明治天皇の崩御がにより当時の国民が記念日を作ろうとしたのが始まりです。

 

国民の働き掛けで、11月3日が明治天皇の誕生日の明治節とされ祝日になりました。

 

やがて戦後に名前が変わり現在の文化の日という形となっています。

 

廃止や日付の変更もあり得ましたが、11月3日の祝日は守られています。

 

明治節は四大節に含まれる1つで、以前から存在していた三大節に追加されたものです。

 

この日と明治天皇誕生日が関係するのは当然のことですね。

 

誕生日を祝日としていた11月3日が現在の形になったのは、戦後の憲法制定が理由です。

 

 

11月3日を憲法記念日とする主張もありました。

 

しかし、GHQが却下したことで5月3日に決まり11月3日は空席となりました。

 

そのままだと廃止もあり得ましたが、GHQ側の提案で祝日を残し、新しい名前で制定する結果に至っています。

 

それこそが文化の日であって、明治天皇にルーツがある国民にとって特別な1日となりました。

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